2007年01月01日号

新しい年に


12月30日までの良き日に餅をつき、すす払い・大掃除なども済ませて、31日年越しの日には夕方に神仏にお膳を供える。年越しの日は必ず風呂を立て、一年の垢を流した。山で獲ったウサギ汁に自家製のそばを食べ、夕食後、戸主が1升枡(ます)に米を盛り臼(うす)をかぶせて、その上に餅と酒を供え、米や餅を搗(つ)く臼に1年間の感謝の念を込めて拝んだ。夜、男たちは神社に寄り集まり、神と共に朝まで過ごす「通夜」を行い、家族は年を越して、神社に初詣に行く。元旦、男が井戸から若水を汲み、臼をかぶせていた米を炊く。家のそこここに鏡餅を供え、家族そろって新年の膳を囲む。

   散歩人が物心つく頃までの、年末年始の情景だ。秋田の山奥の、雪に埋もれる小さな農村。店も娯楽も何もない。それでも大晦日と元日には皆で座敷に特別の膳を囲んだ。いつもとは違う日。厳粛さと晴れがましさに子供心が踊った。信仰と呼ぶにはあまりに素朴な、自然と身の回りの神々を拝み、受け継がれてきた風習を守って、日々の生活の規律を大切にした。それがやがて、機械化と車社会化、情報化の波の中に廃(すた)れてゆく。高度成長の恵まれた環境下で生きた人々は、そうした風習の意味合いを深く考えず、息苦しい虚礼と称して捨て去って来たように思う。

   今年も大型スーパーなどは元日からの営業だ。日頃から“ご馳走”と華やかな娯楽に囲まれた生活。同じように店は開き、家々の正月の行事もなく、いつもと同じ一日が流れ、正月すら「特別の日」の感覚は薄れつつある。おそらく、去る1年を振り返り、迎える1年に心を新たにする、そんな特別な日の意識も子供たちには薄れてしまうのだろ。

   経済至上主義のもとで、自然が壊され、それぞれ何らかの意味があって営々と受け継がれてきた人々の生活も心も崩され風化してゆく。そのような“魔”が、現代社会に潜んでいるような気がする。日々、いきいきと生き、「普通の人」が希望を持って、普通に生きられる社会を、文明社会はめざしていたのではなかったのか。1日1日をかみしめながら、新しい年を生きてゆきたいと、そう思う。

   あけましておめでとうございます。本年も「まんまる新聞」を、よろしくお願いいたします。
くらしの新聞社スタッフ一同

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