2009年11月13日号

苦い記憶


4年ほど前のことだった。以前の募集の案内か何かを見たのか、雇って欲しいと突然その青年が訪れた。前に印刷工場で製版の仕事に就いていたという。コンピューター化による人員縮小で仕事を失った。今は工事現場で不定期の警備員の仕事をしていると言った。浅黒く日に焼けた顔、節くれ立った指、着慣れないスーツを身にまとった背の高い男だった。誠実そうな朴訥(ぼくとつ)とした人柄だったが、新聞の仕事には不向きだと思った。経営が苦しく、人を雇い入れる余裕もなかった。


   印刷や出版、新聞の業界も、この十数年というものは、コンピューター化の波が押し寄せて仕事が急速に合理化された。活字を打つ写真植字、それを台紙に貼り込む版下制作、印刷の元版に仕上げる製版…その仕事のすべてが1台のコンピューターだけでできるようになった。必死で仕事を覚え熟練した多くの人が職を失った。青年の身の上も他人事ではない。何とかできないかと頭をめぐらせたが、いい考えが浮かばないまま、断るしかなかった。…「そうですか」と青年は肩を落とした。


   席を立って、ギクシャクと体を折り曲げるようにして頭を下げた。少し前かがみの、いかにも不器用そうな仕草でドアの方に歩き出し、また体を返すと、声を詰まらせるようにして「やっぱりだめでしょうか」と言った。誠実そうな目を思い極めたように見開きながら、「何でもやりますから…」とも言った。内気な性格を必死にかき開いて絞り出したような声だった。「本当にごめんなさい」と頭を下げるしかなかった。青年はそれよりもさらに深く頭を下げると、うなだれて出て行った。


   青年を見送って机に戻った時に、突然、嗚咽が込み上げてきた。なぜかわからない。涙が噴出した。おさえようとしても、泣く声が喉を突いて出てきた。どうにもならなかった。人目をはばかることもできない初めての経験だった。青年を雇えもしない自分が、どうしようもなく情けなかった。力がないのが口惜しかった。大口をあけて泣くのを、驚いたスタッフが呆気(あっけ)に取られて見ていた。


   人が幸せになるために世の中が便利になって進化しているとどこかで信じていた。しかし、進む方向はまったく逆だった。便利になればなるほど、人は不要になって行く。人を必要としない世の中が作り出されて行く。人の生存を許さない文明の進化…。その現実が今、目の前で進んでいる。普通の人が普通に生きて行ける、人間が生きるための世の中にしなければならない。何とか変えなければならない。


矢井田瞳 CD

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