2010年08月13日号

それぞれの、夏の記憶


山奥の小さな集落に生まれて育った。夏になると決まって蕁麻疹(じんましん)が出て、貧乏百姓の両親を悩ませた。湿疹(しっしん)が身体いっぱいに広がって痒(かゆ)がる息子に困り果て、栗の葉を煎(せん)じて患部を洗ってだめならば、仕方なく母親が野良仕事を休んで町の医者に連れて行く…。


   町へ出るのによそ行きの服を着るのがうれしかった。母はいつもと違ってきれいになって、白粉(おしろい)の匂いがした。白い日傘をさして、夏の日差しと蝉しぐれが降りそそぐ山道を歩く。峠にたどりつくと木陰に冷たい清水が湧き出ていて、葉をまるめて器にしたフキの柄杓(ひしゃく)で湧き水を汲み、渇(かわ)いた体をうるおした。白い雲がゆっくり流れる。山肌をその影がまだらな模様となってすべって行く…。


   峠は高い山の裾(すそ)にあった。あの山に登れば海が見える…と母が言う。もの心ついてそれまで海を見たことがなかった。山間の村の子供には、海は未知の遠いあこがれだった。後に海沿いの町の花火を見るためにその山に登った時、遠くに白い線になって初めて見る海が光っていた。心が彼方へ広がっていくようでなぜか無性に気持ちが良かったのを覚えている。海に日が落ちて、薄墨の闇に町々が沈み出した頃、海辺の町に小さく小さく花火が上がるのが見えた。それも初めて見る打ち上げの花火だった。


   一昨年の夏、腰が曲がってしまった母親が海に入ってみたいと言い出して、厚田の海に行った。スカートをまくり上げて素足を海に泳がせ、少し遊んでから「これで何も思い残すことねえじゃ」と何度も言った。戦時中に娘時代を過ごし、戦後まもなく17で山の中の農家に嫁入りした。海で遊んだことなどなかった。海に入って思いっきり遊んでみたい…心の奥にしまい込んだささやかな夢。そんな人生だった。


   ひとりひとりの心にまどろむ夏の思い出…。


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