2012年08月31日号

新藤兼人さん・乙羽信子さん


「乙羽さん」、「センセイ」と、2人は最後までそう呼び合った…。映画監督で脚本家の新藤兼人さん。その後半生の最愛の伴侶として生きた女優の乙羽(おとわ)信子さん。その純粋で真っ直ぐな情熱が好きで、気になる人たちだった。乙羽さんは新藤作品のほとんどに携わる。映画作りの同志でもあった。


   宝塚を退団して大映に入り、「百万ドルのえくぼ」の人気スターになった乙羽信子さんは、大映を2年でやめて新藤監督のもとに走る。しかし、新藤監督には2番目の妻(美代さん)がいたから、以来、忍び逢う関係が26年間続いた…。新藤監督と美代さんとの間には3人の子があった。その子供たちが成人すると美代さんは家を出る。「ながい間じわじわと妻を苦しめてきたのは私だった。(中略)妻は(離婚して)3年目に死んだ。東京の郊外の町の区役所から連絡をうけて死を知った。(中略)妻の死はこたえた。妻は実家にも帰らないで独りでアパートで暮らしていたのだ」(新藤兼人著「愛妻記」より)。美代さんと乙羽さんと「いつも2人のどちらかを裏切り続けました」と新藤さんは後に語っている。罪の意識に苦しみ、乙羽さんは嫉妬と孤独感にも苦しみ続けた26年間…。


   「どうしようもない私が歩いてゐ(い)る」という種田山頭火(戦前の俳人)の俳句が、新藤監督を思う時、なぜかいつも思い出される。深い業(ごう)で人を苦しめているどうしようもない自分がいる…新藤監督の映画には、そんな業を抱きしめる思いがいつも底辺にあって、観る人の心に響くのかも知れない、などと考えてみた。


   結婚をためらっていた乙羽さんが体調を崩したのを機に、子供達の後押しもあって、正式に結婚することになったのは1978年(昭和53年)新藤兼人66歳、乙羽信子54歳の時だった。離婚後7年、美代さんが亡くなって4年が経っていた…。


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