2013年01月11日号

叔父たち・・・


秋に亡くなった横浜の叔父に、線香の1本でもあげたいと思い立って、年末の飛行機に乗った。戦前、産めよ増やせよの時代、父の下には7人の叔父叔母たちがいた。1番下の叔母と散歩人の長兄とは数歳しか年の差がない。亡くなったのはその上の叔父で71歳だった。散歩人が高校を出て上京した折りにずいぶん心配をかけたものだから、せめて仏前に手を合わせるしかなかった。


   忠正叔父は中学を出て縁続きの商家に奉公した後、自衛隊に入隊して大型免許などを取得し、その資格を持って石川島播磨重工業という大企業に終生の仕事を見いだす。秋田の山奥の貧しい農家では満足な教育も受けられず、農家の跡取り以外は、辛くとも婿に入るのが多い時代だった。だが、強い自我があったのだろう、あがきながらも自らの将来を切り開いた…。仏前を辞して、その足で、忠正叔父の上の兄で、75歳になって健在のもう1人の叔父がいる御殿場に向かった。


   義昭叔父は中学を出てから牛馬で田を耕し炭を焼いて貧しい家を助けた。22の年に自衛隊に入隊、陸上自衛隊富士学校に配属されて以来富士の裾野で自衛官としての半生を全(まっと)うした。若いうちは苦しい実家に仕送りを欠かさなかった。義姉である母は「家の犠牲になった」と今でもすまながる。父の葬儀以来20年ぶりに会う不肖(ふしょう)の甥を前に、叔父は昔の笑顔のままに「やあやあ」と喜んでくれた。


   小さい頃、自衛官の制服姿で帰省する2人の叔父はあこがれだった。ステレオを買い、歌謡曲からクラシックまでレコードを持ち帰って聞かせ、町のレストランに連れて行ってくれたのも叔父たちだった。その叔父たちは、農家の4男、5男に生まれ、高等教育も何も持たずに社会に泳ぎ出し、1筋、2筋のわずかな糸をたぐって力の限り運命を開いたのだった。多くの人々がそうではあるのだけれど、散歩人にとって叔父たちは、涙が出るほどに誇りに思えるのである。


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