2014年03月07日号

器の大きさ


 あの人は器が大きいとか小さいとか、よく言うけれど、人間の器は決して1つじゃなくて、一面だけを見て判断できるものではないと強く思うようになったのは、40を過ぎたころからだった。駆けっこの器が大きくて走るのが早かったり、駆けっこは遅いけれど力持ちだったり、くるくる要領よく考えたりしゃべったりする器は小さくて上手にできないけれど、人に対する寛容の器は大きくていつも優しい人だったり、逆にその器が小さくて些細なことでも騒ぎ立てたりくよくよする人だったり、感情的になってしまう人だったり…。人には大小いくつもの器があって、皿回しの芸じゃないけれど、それを回しながら毎日を生きている、それが個性とも言うのだろうと、いつの間にかそう思うようになった。


 知人の奥さんは心のきれいな人で、信仰心の篤(あつ)い人だったが、あけっぴろげにものを言えない性格などもあって、いつの間にか心の器の1つがいっぱいいっぱいになって溢(あふ)れ出したのだろう、とうとう心を病んでしまった。こうあらねばならないと思うあまり、縛り付けてきた生の自分自身が暴れ出し溢れ出てしまったのかも知れない。図々しくいい加減に生きてきた散歩人などとは違って、小さなガラスの器だったのだろう。


 戦中・戦後を生き「日本のゴッホ」と称えられた、山下清(1922年~1971年)という画家がいる。知的障害と言語障害がある一方で、色紙をちぎって貼るちぎり絵は高い芸術性を有し、戦前から多くの人々に称賛されて、映画やテレビドラマでも大きな人気を呼んだ。その山下清が放浪していた頃に克明につけていた日記を集めた「放浪日記」(「裸の大将放浪記」)という本が好きで、読むとそのおっとりとした世界にほっとするのと、考えの鋭さと的確さに教えられることが多いから大切な本になっている。


 こっちの器は小さくともあっちの器は大きい。この器は大きくてもあの器は小さい。その組み合わせで生きている。そう思えば、ああこの人も一生懸命生きているんだなあ、とそう思えたりする…。


コブクロ CD

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