2017年07月14日号

「恥ずかしい」と思う心


 それがいいか悪いかはわからない。ただ、いい気にならないこと、出しゃばらないこと、何事も控えめにすること、遠慮すること…といったふるまいの制限は、小さい頃からことあるごとに教え込まれて育った。例えば訪問先で食事を出された時に、ついはしゃいで叱られたりする。口で叱られるのならまだいい、眉をひそめられるのには、それが誰であれ何だかひどく傷付いてしまう気がするのだった。それが嫌で、控えめないい子のふりをするうち、知らず知らずに身に染みついてしまう…(「偽善」という言葉を知らなくとも、大人に気に入られるためにどこかでごまかし、ウソをついているという、自分の生き方に対する無意識な罪悪感が、まだほんの小さい子供にもあったのだが…それはさておき…)。


 少なくとも、つつましく控えめなふるまいは、古来からの日本の美徳でもあるらしい。その根元には、注意深く慎重に生きる賢い知恵が隠されているのかもしれない。「能ある鷹は爪を隠す」のだ。それが「恥の文化・謙遜の文化」につながったのかどうか。とにかく、もの心がついて小学校に上がる頃になると、人の家がみんな良く見えた。我が家のように臭くない、きれいで、片付いていて、食べるものも良くて…それにひきかえ我が家は、自分という人間は顔かたちも考えもきっと劣っていて恥ずかしい…なんて、まるでイジケ虫の大行進みたいな感じ方があった。


 大人になるにつれ、そんな気持ちが実はほとんどの人にあるらしいことがわかってきて、何だそうだったのかと笑ってしまったのだが、ある意味、恥ずかしいと思う気持ちは、人を見下す傲慢さを抑え、人の立場に立って思いやるような、繊細な心根を生み出す大切な心の働きだったような気もしている。


 とはいえ、行き過ぎて「卑屈」になるのは困るけれども、「恥ずかしい」と思う心が何だか奥ゆかしくて可愛らしいと思ってしまう。若い頃、もしかするとお互い想い合っていても告白できなくて…なんてことを引き起こすイタズラ者でもあるらしい。


キッズ・ベビー・マタニティ

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