2018年06月29日号

夏の記憶


 汽車の最後尾から、流れるように過ぎてゆく線路と夕暮れの風景を見つめている。傍(かたわ)らに母親が手を引いて立っている。小さな声で歌を口ずさんでいるようだ。5、6歳の頃だろうか。悲しげな母親の顔を見上げた記憶が、おぼろげに残っている。


 だいたい、散歩人の両親というものは、夫婦げんかが絶えなかった。父親は血気が強く、しかも満州からの復員兵で人知れぬ屈託も抱えてか、酒乱の気があった。ささいな言い争いから、怒鳴り声になり、大きな物音が起こって、母親が逃げ回る足音が響く。そんなだから、小さい頃はいつ夫婦げんかが始まるかと、ビクビクしていた。そして、その喧嘩がのっぴきならなくなると、一番小さい子供を連れて母親が家を飛び出す。列車の最後尾から見る線路の情景は、そんな時の記憶で、小一時間のところにある浜辺の町の伯父の家に向かうのだった。やがて、数日後には父親が迎えに来るのが常なのだが…。


 ――桜の花がけむる春のある日、細い峠道を辿る花嫁行列があった。里の村から嫁ぐ花嫁は、ふもとで馬車を降り、花嫁衣裳に角隠しをつけたままもんぺを着け、草履を地下足袋に履きかえて、まだぬかるみの残る山道を登った。付き添う村人が歌う長持ち歌が山に響く。昭和22年4月28日、散歩人の母親が、東北の山間の小さな村に嫁いだ時の情景を、本人は未だにあまり話そうとしない。満17歳。頬にまだ赤みが残る少女だった。「なんも知らね(年)でしゃ。嫌で何回も断ってもらったども、まわりで決められでしまうがら…」。(中略)少女の新しい生活は、ただ「はい。はい。」と言うことを聞き、何か言われないか、まわりの目だけを気にしながら萎縮して1日1日を生き延びる、そんな日々が続いた。馬車馬のように働き、酒乱が高じた夫の暴力に耐え続ける。嫁入りの日のあの青空と桜は、母にとっては記憶の底に沈めてしまいたい情景になっていたのかも知れない――こんな「散歩道」を書いたことがある(2007年4月6日号)。


 現代と違って、右も左もわからない世間に飛び出す勇気も知恵もなく、多くの花嫁は我慢の上に我慢を重ねて、家を支え子を育てたのだろう。一方で、惨(むご)たらしい戦場の記憶は死ぬまで父を苦しめたと、後に母に聞いた。父と母、そして、ある夫婦の生身の人生…時折り思い出して噛みしめる。遠い昔の夏の記憶の一つだ。


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