2018年07月27日号

ちいさな「敬意」


 開拓の村あたりから入って、文京台の奥の大沢口あたりに出る…野幌森林公園の散歩道をたまに歩くのが楽しみだった。森の小道を歩いていると、行き合う人ごとにどちらともなく会釈し合ったり、「こんちわ」「どうも」などと挨拶を交わし合ったりする。ある時そんなことにふと気がついて、ちょっと愉快な気分になった。そういえば、山登りの山道ですれ違う人は、例外なく挨拶を交わし合う。無事を確認し合い、元気づけ合う、無意識にそんな意識が働くんだろうか。


 それは、秋田の山奥の小さな部落に生まれ育った散歩人が、幼児の頃の森の小道や、小学校に上がるようになってから通学した山道で、毎日のように見てきた風景だった。山の中で人同士がすれ違う、声をかけてお互いの身を案じ合う…。大人子供関係なく、会う人ごとに必ず何か声を掛け合う、そんな空気が昔から当り前のようにあった。ところが、それがある時から消えてしまう。車に乗るようになってからだ…。


 以前、こんなことを書いたことがあった。――大リーグ・ヤンキースで活躍する松井秀喜選手が今年春(2004年)、日本と大リーグとの一番大きな違いは何だったか、と聞かれて「アメリカでは球団も選手もファンも、敬意をもって接してくれる」(筑紫哲也氏のインタビュー)と語っていたのが、強く印象に残っている。「敬意」とは何か。「相手を尊んで礼を尽くす」という、人を敬(うやま)う気持ち=広辞苑=だが、それが日本には無かったという。先ごろ巨人軍オーナーを辞任したナベツネさんこと、読売新聞グループ本社会長の渡辺恒雄氏が、近鉄合併問題で選手会会長として経営者側との話し合いを望んだヤクルト・古田選手に対し、「無礼な。たかが選手の分際で…」と漏らした談話が、松井選手が日本で持ち続けただろう憂うつを想像させる。日本を代表するプロ野球選手で、しかも、独立した一個の人格に対し敬意を払うどころか、何の根拠によってか、上から見下して単なる使用人として扱うことしか知らない貧しい人間性。(中略)。今一度、考えたい。「敬意」とは何だろう。大人であれ、子供であれ、お互いに敬意を持ち合えば、きっと気持ち良く生きて行けるだろうと思う(2004年8月27日号散歩道)――。


 あれから十数年たつが、政治・行政も、社会のあり様も、むしろ1人1人を尊重する世の中とは反対の方へと流れている気がする。表面上、便利になればなるほど、人は傲慢(ごうまん)さを増した。独りでは生きられない自然の厳しさの中で…お互いの存在を認め合う、大切にし合う…人同士の「敬意」というもののかけがえのなさを、森の小道の情景から思った。


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