2018年08月10日号

あたたかな他人


 作家の井上ひさしさんが、岩手県の一関市で過ごした中学生の頃の思い出話。


 ――目抜き通りの大きな本屋さんに行くと、おばあさんが店番をしているだけだったから、生意気盛りのいたずら心で国語の辞書を持ち出そうとした。それを見つけた本屋のおばあさんは中学生の井上さんを店の裏手に連れて行き、「あのね、そういうことばかりされると、私たち本屋はね、食べていけなくなるんですよ」と、その場で薪(まき)割りをさせられた。てっきり罰だと思っていたら、薪割りが終わるとおばあさんが裏庭に出てきて例の国語辞書と、「働けば、こうして買えるのよ」と薪割りした労賃から辞書代を引いた残りだというお金までくれた=「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」(新潮文庫)より=。おばあさんは僕に、まっとうに生きることの意味を教えてくれた…井上ひさしさんは、忘れられないというその思い出を、故郷・一関の講演会で“返しても返しきれない恩義だ”と披露している。


 子供を罪に陥(おとしい)れてはいけない…道を踏み外させてはいけない…書店のおばあさんの慈愛に満ちたまなざしが、他人の思い出話とはいえ、何だか自分のことのように懐かしくてうれしくて、ずっと心にあるものだから、散歩道で以前にも紹介した。


 小学生の頃、たんすの上の母親の財布から小銭を盗んで母に泣かれた記憶から始まって、思い出してみれば顔から火が出そうな恥ずかしい行いがいっぱいあった。20代の頃、出張先の会社の社長に経済情勢を聞かれ、知ったかぶりをして怪しげな知識をひけらかしたことがあった。あきれながら聞いてくれただろう社長は、夜、焼き鳥屋に連れて行ってくれ、「がんばれよ」と背中をたたいてくれた。恥ずかしくて、虚勢を張ったり嘘をつくのは金輪際やめようと思った。


 ほんのちょっとしたきっかけで道を踏み外しそうになったことが何度もある。その都度、手を引っ張り上げてくれる、名も知らぬ通りすがりの人がいたと思う。本当にありがたいと思う…。


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