散歩道 9月13日号掲載

「慚愧(ざんき)」という言葉がある。「慙愧」とも書く。“慚(慙)”も“愧”も、どちらも「恥じる」という意味で「慚愧に堪えません」などとエライ人が謝る時によく使うからおなじみだ▼“慚(慙)”=ザン=は、〈切る、切り刻む〉という意味の「斬」に、「心」を表す偏や脚(あし)などの部首が組み合わさって、「心が切り刻まれるほどに、(自分に対して)恥ずかしい」となる。内、つまり「自らに恥じる」意味…▼“愧”=キ=は、〈グロテスクな頭部を持つ、死者の亡霊や化け物〉、転じて〈平常・尋常でないもの〉を表す「鬼」に立心偏が組み合わさり、「自分の見苦しきさを人に対して恥じる」意味がある。人、あるいは社会、そして“天”“神”、つまり外に向けて恥じる心のあり様という。慚愧には、「悔いる」「自責の念にかられる」意味合いがこもっている▼その時代の実態を知る人々が去り、“戦争を知らない”世代が増えるのと歩調を合わせるかのように、この何年か、書店を歩けば隣国の民族を蔑(さげす)み貶(おとし)める怪しげな本が平気で積み上げられるようになった。傲慢(ごうまん)に胸を反らし誠意のない“謝罪”はむしろ反感を買うばかりではないか。いま起きている政治問題は、うっぷん晴らしにも似たそうした子供じみた姿勢の積み重ねが根底にあるのではないか。日本人として誇りを持つどころか、「慚愧の至り」なのである。