2020年1月17日号掲載 忘れられない話がある……

忘れられない話がある……シンガーソングライターの平松愛理(えり)さんは、デビュー直後から重度の子宮内膜症に苦しみ、その激痛と闘う日々を重ねながら、母子ともに生きる確率が4分の1という難産の末、奇跡的に一粒種の長女「初一音(ハイネ)」ちゃんを授かる。子宮摘出。しかし、さらにガンを宣告され、2001年、乳ガンを手術。激痛と精神的な消耗に思わず娘の前で泣いてしまう。その時、6歳だった初一音ちゃんは大粒の涙をボロボロ流しながら、「初一音はね、ママの痛いがどんなに痛いかがわからないのー」……「この一言に私はまいりました。ママの痛みがわからないということをつらく思ってくれている小さな小さな心。ただただ、抱きしめました」。十数年前に行われた北海道青少年育成協会主催の「少子化社会を考える道民のつどい」(2004年7月)で、平松愛理さんは万感の思いを込めてこんな話を紹介した▼幼い小さな心で、苦しむお母さんの痛みをギリギリまで“想像”してみたのだろう。でも、自分の身にはその痛みはわからない。ほとばしり出た初一音さんの純粋な叫びは、百万語を使いこなすより、母親を思う心がまっすぐにあふれ出る感じがして、いつ思い出しても胸が熱くなる…▼実は、この話がどうしても忘れられないのは、「想像」ということの大切さと限界をありのままに教えてくれたからだ。「想像」は、辞書には《おもいやること。実際には経験のない事物、現象などを頭の中におもい描くこと。(中略)空想をもいうことがある》(国語大辞典)などとある。“経験”の積み重ねや、学んだり考えたりした“知見”を総動員し、状況などを推しはかって描き出す心象(イメージ)と言っていいかもしれない▼例えば、津波や原発事故、台風など災害の被害をいろいろな面から“想像”したり、戦争の犠牲になる人々の惨状を少しでも具体的に“想像”出来て初めて、その人々の痛み苦しみに近づくことができるのではないか。自分の経験や知見を総動員して《おもいやり》《推しはかり》現状を理解して対応しようとする「想像」という力のかけがえのなさ、大切さ。それでも、なお現実からは遠い…それが人それぞれの“限界”なのかと思う▼最近、政治家などに「寄り添う」という言葉が流行している。耳触りがいいからと軽く使っているように聞こえてならない。そこにギリギリの「想像」が伴っているのか、気にかかる。